いのちの器

ゼンタングル

先日、祖母が亡くなりました。

葬儀場には「ほんの数時間前まで祖母だったモノ」が置いてあって、私は、穏やかな気持ちで「ああ、いのちが終わるって、こういうことなんだなあ」と思いました。

役目を終えたいのちの器は、肉のかたまりになって、腐って、朽ちていく。

そうやって、自然に還るように作られている。

草花と何も変わらないんだなあ、と思いました。

なんだか、細川ガラシャの辞世の句を思い出しました。

私たちは、生きている間は、いろいろ考えたり悩んだり、死を怖がったりするけれど、私たちのいのちを収めているこの器は、きっと、最初から「朽ちる」という使命を知っているんですね。

それこそ、美しい草花がそうであるように。

そんな、いつか「モノ」になる私たちが、自らの手で「モノ」を作り出して、そのうちのいくつかが、何百年、何千年も先の未来まで大切に残されるだなんて……、本当にすごいことだなあって思います。

私たちが毎日のように見聞きしているネットスラングなんかも、いつか、古典として読み解かれるんですかね。

未来の人たちがウンウンとうなりながら勉強している様子を、私たちは天国から「あの言葉はそういう風に解釈されるようになったんだね~」みたいに笑いながら見守っているのでしょうか。

はたして、何が残って、何が絶えていくのでしょうか。

そういうのを見守るのって、なんだか楽しそうです。

天国に長居しすぎて、神様に「そろそろ生まれ変わってくれ」とか言われるんでしょうか。

そう言われたとき、私はどうするのかなあ……。

そんなことをぼんやりと考えながら過ごしています。

Thanks for your time!


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