カジュアルに、軽やかに!
幡野さんの新刊を2回読みました。
本の感想というか、改めて考えたこと、ふと思い出したことなどを書きます。
うまくてダメな写真とヘタだけどいい写真
幡野 広志(著)
ポプラ社(出版)
これは初めて「四国村」に行ったときに、スマホで撮った写真です。とても気に入っています。
大げさに聞こえるかもしれませんが、私は、これから先の人生で、これを超えられる写真はもう撮れないかもしれないと思っています。
四国村には、貴重な建築物や、ナイスな坂道や、季節の草花など、見どころが本当にたくさんあります。
だけど、そういうところで撮った写真よりも、私は、この落ち葉の写真の方が好きです。
この落ち葉を見たとき、「鳥の羽根みたい!きれい!」って感激して、気が付いたら写真を撮っていました。
なんだかものすごい大発見をしたような気持ちになって、今のこのうれしさを未来の自分に届けたくて……という、まさに、ブログを書いているときとほとんど同じようなテンションでした。
幡野さんのおっしゃる「いい写真」のヒントが、ここにあるように思いました。
もうひとつ思い出したことがあります。
短大生のころ、デッサンか何かの講評会のときに、先生から「技術を褒めるな」と言われました。
そのころの私は、他の学生から、私の出身校だけを見て「さぞ美術に関する知識があるのだろう」「きっと有名な美術大学に編入するのだろう」みたいな期待を寄せられて、正直しんどかったんです。
そもそも、機能不全家庭で育った私には、「将来の夢」なんてものを持つことが許されていませんでした。私は、「短大卒」という最終学歴を得るためだけに、短大に入ったのです。
そんなこんなで、周りとの温度差に息苦しさを感じたりもしていたので、先生の「技術を褒めるな」という言葉を聞いた瞬間、安心したというか、肩の力が抜けました。
なんかね、何の根拠もないけれど、「それなら私にもできる!」って思えたんです。
後から思い返してみれば、そう思えること自体が、私のかけがえのない財産のひとつでした。
ふと、そんなことを思い出しました。
この本を読みながら疑問に思ったんですけど、いわゆる「バズ」を狙っている人たちって、はたして、バスった後のことは考えているのでしょうか。
もしも、バズること自体をゴールだと考えているのだとしたら、私は、それはかなり危ういなと思います。
自分の作品が多くの人に見られるということは、自分が、毒親や、悪質クレーマーや、DV加害者のような「専門的な支援を必要とする人たち」の餌食になる確率が上がるということです。
バズなんて、ゴールどころか、むしろ地獄の始まりだと私は考えているのですが……、何か、バズ教の方々を魅了してやまない、画期的なメソッドがあるのでしょうか。
それとも、単に、危機感や想像力が足りていない人たちが、昔よりも目立つようになっただけでしょうか。気になります。
本の感想をもう少しだけ……。
RAWのお話を読んだとき、最初はかなり凹みました。
なぜなら、JPEGしか撮れないような安いインスタントカメラでも楽しく写真を撮ってきた私と、カメラらしいカメラをおいそれと迎えることのできない私の両方を否定されたような気持ちになったからです。
だけど、だけどですよ、本を2回読んで、自分の頭で考えたら、考えが少し変わりました。
JPEGで完璧な写真を撮るために、シーンに合わせてカメラの設定をいじくりまわして、目の前に感動的な光景が広がっているというのに、いつまでもいつまでも、カメラの画面とにらめっこして……、それは本当に、「写真を撮っている」ことになるのでしょうか。
少なくとも、私が目指しているスタイルは、そうではありません。
正直なところ、初心者の私には、バズっている写真のどこがどんな風にダメなのか、それすらも分かりません。
けれど、ひとつだけ分かっていることがあります。
私は、できることなら、「すごい写真を撮れるすごい自分」ではなく「目の前の光景」を届けられる私でありたいです。
そして、「技術を褒めるな」と言われてほっとした私なら、張り切ってイチから心構えを組み立てなくても、自然といい写真を撮れるようになるんじゃないかと思っています。
そう信じて、これからも、楽しいものごとを心から楽しいと感じられるときに、楽しく写真を撮り続けます。
Thanks for your time!